実存主義的家事のやり過ごし方

ハイデカーは人間の存在と事物の存在の区別のよりどころを、存在の存在、つまり、存在していることを自ら認識する能力に求めた。

これはわかりやすい。物や動物は自分が存在しているという視点を持っていない。自分を客観的に眺める視点の位置づけを、超越した視点、メタ視点という。上から見た感じと思うといいかもしれない。

そして今日は、このすばらしい部ログ「懸念」の執筆者である私の元に、すばらしい読者からの質問が一通来ないので、自分で考えて書くことにする。家事育児はなぜ、実存的な危機と隣り合わせであり、それをどうやり過ごせばいいのか、という問題である。

実存という言葉すなわち、existは、語源をたどると、外へex、力強く立つist、といった意味合いである。つまり存在しているということは自分で認識していると同時に、他者に向かって立ち、自分の存在をアピールする、認知させるという次の活動もはらんでいる。

ところが家事というのは、まったくもって非実存的だ。家事は取替え可能な仕事、自分じゃなくてもできる仕事だし、それをしたからといって報酬や非金銭的評価(名声、やりがい、喜び)は得られない。

このような実存の危機の契機を毎日何時間も不条理にも背負わされる状態、それが専業主婦(専業主夫)である。私は、幸いというか、専業ということではなく、兼業主夫であるからして、彼らと実存の危機の契機を共有することができる。

毎日毎日、家族の生活があれば、皿は汚れ、ごみは出、食料は買出しに迫られ、トイレの輪じみをふき取り、エアコンのフィルターは掃除機ですって、掃除機の中の紙パックは楽天で価格を調べて最安値店で買いだめし、子供がくれる紙や粘土で作られた「お父さんへのプレゼント」は年代順に箱に入れて生活県外の倉庫にしまいこみとあらゆる雑事が、非実存的作業が専業主夫あるいは兼業主婦の肩にのしかかる。

そこで。そういう作業は考えなくてもできる作業ということを逆手に取り、ヘッドフォンで放送大学の講義(お勧めは人文・社会系)を聞きながらやるということである。

そうすれば、講義を聞くという実存的契機に変えることができる。講義を聞くという営みは、このインプットを使って、自ら知見を深め、いつの日か他人のその知識をひけらかすことを夢見て生を未来につなげることができる。

あとひけらかして発散系ではこのブログなんかもそうだったりして。



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