趣味は読書
子供の学歴を左右するのは、よく親の経済力と文化資本といわれる。文化資本とういのは、おもに親の蔵書のことである(もちろんほかにもある、要は親の蔵書に象徴される、親のゆたかな教養とか、家庭の知的な雰囲気である)。 私がラッキーにも生まれた家は、経済的にも比較的、そして文化資本でいうとすこぶる、恵まれていた。ところが、私は怠惰だったし、社会的な義務感から逃れたいという気持ちが強かった(中央線の朝のラッシュで通勤して定年まで一社に勤めるのはゴメンだった)、引き継いだ大量の文化資本、つまり父親の蔵書を持て余すようになった。 父が8000冊の本を残して死んだのは2002年の憲法記念日だ。12畳もある巨大な父の書斎の半分は、大学の図書館にあるような移動書架が6基鎮座していた。残りの半分は、腰の高さまですべて本が積もっていた。だいたい、8000冊というと、6畳ほどの部屋が、床から天井近くまですべて本で満杯になるくらいの量だろう。膨大な本に、かなり最近まで畏怖の念をいだいて、捨てたり、無造作に扱ったりするのはよろしくないと思っていた。ところが、本を保管するのに、この中央線沿線では年間数十万円のコストがかかる(6畳ひとまのアパートを借りるのにいくら掛かるかを考えればわかる)。 本を使って何か収入が増える活動をするのならまだいい。大学教授とか、ライターとか作家とか。しかし、私も母も、残念ながらそんなのではない(じつは父もそんなのではなく、単に趣味で集めていたのだから腰が抜ける)。保管維持コストが、家計にボディブローのように効いてきた。 膨大な蔵書が家計に与える悪影響が決定的になったのは、2004年に家計の計算の専門資格であるファイナンシャルプランナーに合格してから。いったいこの本というのはマジ、やばいんじゃないか、これに殺されるぞと思うようになった。こんな本を抱えていたら、そんな家は、潰れるぞと。重さと、そして経済的な負担で。まあFPにならずとも、月次の保管維持コストが出ているわけだからエクセルでやればすぐわかるわけだが。 というわけで、母と私で、2008年ころから、本を捨てるプロジェクトが始まった。本は、父が亡くなってまもなく、家のリフォームのために全てダンボールに入れて、近所の古い木造賃貸アパートの一室に保管されていた(そのリフォームでは巨大な移動書架も撤去した、