同じことを毎日するのは誰なのか
最近、というかさっき発見したんだけど、毎日同じことをするというのが人生にとっての最大のチャレンジなのではないかということです。
毎日同じことが出来ないから、我慢できないから、人は、次のようなことをします。
- サボる
- 会社をやめる
- 人にはやし立てられて立候補する
- 人をはやし立てて立候補させる
- カフェだの焙煎屋だのパン屋を開業する
- DIYをしてゴミを増やす
- プロブロガーになる
- 情報商材を買いすぎる
- 限度を超える喫食・喫煙・飲酒
- 旅行をする
- 地方に移住する
- 都会に出る
- 変態行為
- 風俗通い
- 寝る、寝続ける
- 昼夜逆転する
- 賭け事や薬物
- 浮気
- 暴力、暴行、痴漢
- 自殺
- ゴミ屋敷化
- ウィルス罹患して放置
- ネグレクト
- DV
- キレる高齢者になる
- 暴走老人
- これ読む(私の最近の事例)
最初に聴いたときは鳥肌が立ち、何度も聞きたいからとDLした音楽も、1年後は呪いの歌にしか聞こえず二度と聞きたくなくなる、そう、人は飽きてしまうのです。
なぜ、私は、同じことが出来ないのでしょうか。最近読んだ『大人のADHD』という本によれば、私はおそらく環境ホルモンの影響などで遺伝子の一部がやられており、ちょっと狂っているという「診断」が得られるかもしれません。しかしそれは、足が2本、手が2本あるのはなぜかというのと同じで、当面の課題解決には役に立たないのです。
同じことをし続けることが出来るというのは、今の日本社会、いや、OECDクラブ、先進国、いや、人類社会全体の中で、もっとも価値のある能力といえそうです。
たとえば受験勉強。同じテキスト、参考書を何度もやれば、だいたいペーパーテストというのは点が取れる。しかし、同じ本を2度目3度目とやっていくうちに、手にかゆい発疹が出来たり、指の皮が剝けてきたりする。
唇をムシって血が出て、爪もかじって超短くなる。歯並びも悪くなる。私の場合、受験勉強すると外観まで醜くなってしまうんです。
それで、かろうじて大学に受かって、出会った人と結婚して生まれた子供が今受験勉強をしていますが、受験勉強への態度は私と同じでがっかりです。
同じことが堪えられない人のための合法的な癒やし、エスケープを提供する所業は、産業として確立されています。
- マスコミ
- メディア企業
- コンテンツ産業
- 映画音楽産業
- 出版業
- 塾予備校
- テーマパーク
- 飲食店
- 家事サポート
- 娯楽産業
- たばこ産業
- 酒製造業
同じことが平気で出来る人なら、医者や弁護士、会計士、裁判官など、現在高収入が保証されている仕事に就くことが出来るでしょう。ただ残念ながら、同じことの繰り返しで高い収入が得られる職業から順番に、数年以内にコンピュータにとってかわれらることになっています。
ですから、トラック運転手や林業、清掃、介護、保育、そういう、コンピュータには出来ない、低賃金な単純作業が人間に残る気がします(運転はグーグルが人間から取り上げようとしているんですが)。
私が今日一日やったことで、過去と異なること、はじめてのこと、新しいこと、同じではないことは、夕方帳簿入力で発狂しかけた神経を休めるためにはじめてたちよったあるジャンクフード屋で食べた300円くらいのバカげた軽食を食べることでした。
それ以外は、全部同じことの繰り返し。何もかもです。朝起きて、着替えて、掃除して仕事、家事、掃除、寝る。買い食い以外全部同じ。
本当に飽き飽きで、死にたくなるほどです。
同じことをしているのは誰なのか。家族の中で、誰がいちばん変化のない毎日を生きているか。社会の中では?一国の中では?地球上では?
人間はもともと獣だし、脳の古い部分は動物的で、危険があるかないかとか、新しい食べ物を探すとか、子孫を残すとか、そういう欲求が常にある。それなのに、文明社会では、そういう古い脳の欲求は全部充足していて、同じことだけやることになってきている。
ここが、ジレンマの根本的な原因だと思います。
長寿化して、同じことの繰り返しの人生は長くなる一方です。2012年に98で死んだおばあちゃんは晩年やることがないから死にたいといっていた。しかし今若い人も、やることがつまらないから死にたいんです。死に至る結論としてつまらないという点が同じです。
このあいだ、郵便局で順番を待っているとき、ある高齢者は囲碁の雑誌を熱心に眺めていました。近所の高齢者は、平日昼間、ゴルフクラブを振り回して熱心に練習しています。私は、ゲーム、勝負事、スポーツ一切ダメ。野球もまったく興味がないです。もちろんオリンピックも。おそらく前述した脳病のせいでしょう。
別の高齢者は庭木を伸び放題にし、秋の紅葉や、落葉を片付ける若い者を眺めて気晴らしをしている。また別の高齢者は、ちょっとした他人のあらを探しては怒鳴り散らしている。彼らがもらう年金は、落ち葉を掃除したり、怒鳴られるひとたち、つまり減る一方の若いひとたちが払っています。
私にとって唯一の気晴らし、それはこのブログ書きかもしれません。ブログ書き自体は同じ営みですが、綴られる文章が過去と一字一句同じということはあり得ない。つまり新しい。
昨日と同じではないこと。あなたってそれは何でしょうか。