中島美嘉は貧者なのか?貧者だ。私も。
鹿児島で生まれた彼女は転校先の中学校になじめず、友人と共同生活をしながらアルバイトくらしをしていた。高校にはいっていない。彼女は貧困だったかも知れないが、友達や、彼女の音楽的な才能を見いだしメジャーにつなげることが出来た音楽の師匠に恵まれた。鹿児島のファーストフード店の店員は、7年後、中島美嘉として紅白歌合戦に初出場することになる。 貧困には3つの側面がある。人は誰でも貧困に陥るわけだが、もちろん「金がない」というだけが貧困ではない。陥りうる貧困には、経済的貧困の他、社会的貧困、そして身体的貧困があるように思う。 社会的貧困はもちろん、人間関係が乏しい、無い、だから孤独であるという状態のことだ。中島美嘉は違った。 身体的貧困は、疾病や先天的事情から、思い通りに身体を動かせない状態のことだ。私は体育がなぜかまったく出来なかった。他の教科は出来た。理由は分からなかった。体育が出来ない気持ちというのは、完全に貧者の境遇である。 人と同じように、競技できない。みんなが期待しているパスを失敗する。結局25メートル泳ぎ切ることはついに今もって出来ていない(スイミングスクールに通ったにもかかわらず)。やるせない。やりきれない。いつも体育があると思っただけで胸がズキズキした。この体育が週に何度もあり、それが12年続く。そしてすっかり(以下略) さらに、それぞれの貧困は、直接的な貧困と、相対的貧困に分類される。私たちがなぜ、貧困に陥って、いわれなき屈辱、自己肯定感の否定、そして最悪の場合、死ぬ羽目に陥らないといけないのか。私は気がついている。それは資本主義がおかしい。学校教育のなにかがおかしい。 とにかく、いっせいに勉強するのはかまわないし必要なことなんだけれども、職業生活が始まると理不尽で不条理な経済社会にいっせいに放り込まれる(しかも最近はもっと悪いことに奨学金という借金まで負わされ)。身体を動かして人々の生活になくてはならない仕事(ケアワーク)は給料は極めて低いし、人間だからそんなに働けない(労働契約では週40時間以上働いて井はいけない)。一方、契約とか投資といったそういう、ちょっと人類の昔を振り返ると道徳的にまずいんじゃないかと禁止されていたような仕事が、とてつもない給料をもらう(富の偏在の加速)。 まあそれでも、働いているという点でまだ可愛い。ピケティによれば、労働は結局資