同じことは繰り返し出来ない

同じことは繰り返し出来ない。勉強、仕事、家事。

結構器用だから、なにかに取り組むとまあ、そこそこできるようにはなる。しかし同時につまらなくなる。

すっかりつまらなくなったものをしかし、やらないと生きていけない。それは生きているといえるかというと、たぶん違う。そうしたことを無理矢理やっている時間は、「死」んだ時間だと思う。生きたいという気持ちを押し殺して目の前のルーティンに向き合わなければならない。

テレビでは必ず、短い時間にまとめて視聴者に伝えるために、「一言でいうと」「要するに」「つまり」という。

私の病状は一言では言わないし、要しないし、つまらない。

訪ねてくる人だけがどうやら有効な薬になっている気がする。それは子どもでもそう。家族がいて、店があって本当によかった。

私はADHD。コンサータを飲んでます。

テレビで、こういう人が出ていた。

高校を卒業して、新宿紀伊國屋書店を皮切りに、以来11の職を転々とし、37年前に限界集落の古民家に移住。以来たったひとりでそこでだいたい自給自足で暮らしている。

彼は木を削って漆を塗って器を作って売って生計を立てている。年間50万円程度。だが生活費は月に3万未満なのでだいたい何とかなるという。

彼は、自分は器用じゃないから、器を作ることしか続けられないと言っていた。他の人は、もっと器用だから、逆にいろいろなことができてしまう。そうするとひとつのことを続けるのではなくて、いろんな新しいことに手を出してしまう。でも自分はそうではないと。不器用だから、ひとつのこと(器作り)しかできないと。

この彼なりの「論評」というのがいかにも病的だ。

たんにADHDなのである、彼も。そして、彼は器用だから、めちゃくちゃ不便な限界集落暮らしを37年も続けられる。彼にとっての器用と、世間一般の器用がずれにずれている。

私が最近注目しているのは、「作業」という人間の営み。

彼が漆塗りの器を作るのも作業だし、私があれこれDIYで作るのももちろん作業だ。ただ、私がパン屋のために準備したり、掃除したり洗い物したりするのは、はたして作業なんだろうか? 違うと思う。なぜならば、それらは、DIYと違って、作業行為の結果が私ではなくて、私の作業の先にある機械によって左右されるからだ。

たとえばパン屋はオーブンに入れる。掃除は掃除機。洗い物は食器洗い機。それに、毎日毎日、膨大な回数、同じ所作を繰り返さないといけない。これはたしかに作業かもしらんが、クリエイティブのかけらもない。行為の結果にいかなる新奇性もない。DIYでなにか作るというのは、そうした家事とは異なる。はじめて作るものが多いし、毎回できあがるものは違う(同じものを作ることが要請されていない)。

これから、洗い物を40分して風呂に入って風呂を洗ってねなければならない。ものすごい憂鬱だ。それは作業ではなくて、「死」だ。

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