家事育児も憲法の勤労の義務であり権利

朝は何でもやれる気がする。さわやかな日差し。新鮮な空気を運ぶ風をほおに受ければ、生きる喜びがみなぎってくるのを感じる。

これほど活力がみなぎっている私なんだから、今日は何でもやれると思って次々と手を出す。もちろん、想定外の時間がかかるので、結局本来やらなければならないつまらないタスクは深夜にやっとやることになる。

そのときの心境は昼間とは真逆だ。つまり死にたい気持ちしかない。生きようという活力は完全に枯渇している。

そういう夜にやってはいけないタスクはたとえば次のような。

  • 洗い物
  • トイレなどの掃除
  • ゴミ出し
  • 実家から届く大量の炭水化物や菓子類を「捨てない」でいかに日常生活を妨げない建物内動線を確保するかの闘い
  • 数週間前に届いたまま、室内の床に置かれっぱなしの大量の炭水化物や菓子類を「捨てない」状態のまま管理すること(かなりストレスを感じる)
  • 領収書の分類
  • 家計簿への入力
  • カード明細のダウンロード
  • 支払
まったくほとんどの人には共感を持ってもらえないと思う。こんなのたいしたことないことばかりじゃないかと思うだろう。ここで憚りながら申し上げると、これらのタスクの量が私の場合ハンパないのである。

掃除や洗い物…家族6人分+ネコ+飲食店。1回の洗い物の数だけでも数十点の食器や箸などを洗わないといけない。一日三回。掃除機掛けするにも、管理床面積が余裕で100平米を超えるため、膨大な時間がかかるし毎回クリーナーのゴミを捨てなければならない。

ゴミ出し…人間が多いことに加え、流入も多く、また洗い物が膨大すぎて水気を切る時間もないのでかなり重い。さらに、たとえばアマゾンとか実家から食べ物が届くとする。梱包されている資材は、段ボール系資源ゴミ、雑紙資源ゴミ、燃やすゴミ、ビニールプラスティックゴミ、埋め立てゴミと常に最低で4種類の分類が必要になる。もちろん段ボールはカッターで解体しなければならない。中腰で週に何度もこの作業を、もう20年くらいやっている。

実家から好意で送ってくれるお菓子などの整理…あまり書けないが、とにかく量が多くて泣きそうになる。本当にもう泣きたくなるとしかかけない。これは昼間に妻と一緒にやるしかないのだが、それが上手く目的の生活動線の確保になるかどうかは心許ない。

領収書や経理関係事務…とにかく死にたくなる。国民の義務だし税務署が来て青ざめるのはイヤだが、この20年近く、税務署が来て問題になったことが一度もない。保存期間は9年。20年間税務署が来なかった。したがって11年分のこの事務がほとんど宗教儀式にしかならなかった。いや、宗教の儀式の方がまだましだろう。経理には感動も生きる励ましも意味ももらえない。死にたくなるのはそういうこともある。

最近高齢者のことを悪く書くことができない。昔は高齢者をしたり顔で「論じて」いたが恥ずかしい。なぜそうなったのかというと、リアルで高齢の方とのおつきあいが増えて、そうするととてもじゃないが高齢者などとくくってなにかを書くなんてことはまったくほとんどひどいことで、事実と異なるし、たいへん質の悪い文章にしかならないことが自明だと分かったから。つまり高齢者というのはひとりひとり、とても異なる。

あと、障害者総合支援法に基づく福祉的な仕事を始めた。そのときに講習を受けたら、いろんなことを言う人にはそれぞれ、いろんなそれぞれの悩みや苦しみがあるんであって、そうした言動のすべてを本人にのみ帰責することはむずかしいと思ったから。

こうなると何も書けないのではないかと思うがそれは違う。このブログのように、日々の作業と向き合う中で思うこの地獄の相貌を引き続きリポートしたい。特に今日の発見は次のようなことだ。表題に書いた死にたくなるタスク一覧。私はこれらは仕事、勤労と思ってやっている。家事、子育て、家計簿。これらは全部、憲法に書かれている国民の勤労の義務であり権利だ。私は勤労の義務を果たしている。ただ問題は、この勤労には賃金が払われないということである。

すべての家事育児に賃金を払ってもらいたい。それは憲法を守るつまり勤労の権利を行使する私たち国民が真剣に政府に訴えなければならない当然の請求である。

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