ふたつの動機付け

1991年に大学受験の浪人になって以来、勉強や仕事にいかに集中して取り組むかが重要なテーマとなった。

大学に合格するために、勉強し、合格した。しかし、合格したら、何かむなしくなって、勉強はしなくなってしまった。

その後、起業したりしてあれこれ自分でやり始める。一定の成果は残せるのだが、その都度飽きたり、むなしくなって、やめてしまう。決算申告や、絶対に外せない締め切りのあるものはやめるわけにいかない。そういうのはたいへんな苦痛に耐えながら、コンサータも飲みながら、何とかやっている。

しかし、もうやりたくないし、結局自分はなんでこう、飽きっぽくて、続けることができないのか、いつも悩んでる。できたらなんていいんだろうとか思ったり。

結論としては、私のなかで、もう絶対にこうしたことへのやる気というのは出てこないということだ。

やる気というのは2種類ある。ひとつは、外的動機付け。もう一つは、内的動機付け。

外的動機付けは、これまで書いたような勉強、仕事のように、外部から評価(報酬)を目的にする動機。こういうのは結局成就しても虚しさが募って続かないのである。二回三回と繰り返していくうちに、苦痛だけが増してきて、結局できなくなる。

一方、こんな私でも、気がついたらやっていること。やり始めると時を忘れて没頭し、とても楽しい活動もある。しかも、いくらでも繰り返せる。その活動はたとえば、DIY、このブログ書き、動画編集、爪かじり、ネットダラ見、掃除、人と雑談とか。これらの活動に共通しているのは、別にやったからといって評価が高まったり、報酬がもらえたりしない。また、頼まれてもなければ、義務でもない。つまり外部からではなく、自分の奥底から勝手に湧いて出てくる「やる気」に基づいた活動だ。これが内的動機付けだ。

内的動機付けに駆動されているときは、コンサータなんて要らないし、気がついたら着手していて、やれたらどんなにいいかなんて思わない。なぜならすでにやっているから。

つまり、結局私、というか、人間てのは、そういうふうにできているのではないかと思う。問題は、やりたくもないことつまり外的動機付けによる活動をやるにあたって、その活動にいちいち値段が付いているこの資本主義社会のほうだろう。

カネが、たとえば金融市場には大量にだぶついているはずなのに、人の嫌々ながらやる活動は家事や育児、介護がそうであるように、本当に安い金額しか付いていない。ただでさえいやな外的動機付けの活動なのに、家事に至っては無給でさえある。

内的動機付けの活動の時間が、外的動機付けの活動の時間に圧迫されて取れないのなら、ほとんどの起きている時間は苦痛になる。しかもその苦痛が報いられることもないし、今の社会のまま(つまり家事育児介護などに対して、正しく報酬が支払われない社会のまま)ならずっと苦痛のままである。つまり人生が生き地獄になってしまう。

そんなのダメだろう。みんながただ黙って、これに耐えるのはもう終わった。なぜなら大西つねきとか、大勢の知性が声を上げだしたし、ネットを通じて、これまで本を読む習慣がなかった人にも広く知られるようになってきた。

コロナが追い打ちをかけた。

まあ、もともと外的動機付けでやっていたことを、内的動機付けに変えるようなことは絶対にできないだろう。どうしても生活上必要な、外的動機付けの活動のうち、値札がゼロになっている家事育児に対して、せめて金を払って欲しいということで、今日もベーシックインカムしかないという結論。

このブログの人気の投稿

宮台真司まとめ

悪の秘密ぼっち「ヘライザー」について

哲学入門チャンネルのじゅんちゃん、ゆとりfamのいよ