匿名者のSNSのクソリプや誹謗中傷は嫉妬やルサンチマンが原因


憚りながら申し上げると、内田樹さんという哲学者が著書『そのうちなんとかなるだろう』で書いていたことなのだが、SNSで匿名で、発信者に対する誹謗中傷やクソリプを上げる人たちの動機には、嫉妬があると。

で、なるほどと思った。ニーチェはキリスト教の原動力にはルサンチマン(分かりやすくいえば嫉妬)があると言ってた。

嫉妬は怖い。ただ、私は、有名なマズローの欲求五段階説にしたがって問題を整理すればそれほど怖くもない。

赤ん坊が、腹が減ればギャーギャー泣きわめく。あれは生存の欲求が脅かされてるので、全身全霊でアラートを発している。そうしなければ、その個体は次世代に遺伝子を残すというそもそもの埋め込まれたミッションを達成出来ない。だから、その泣きわめきに対して、うるさいとか、ギャーじゃなくて「すいません、おなかが減りました」というのが論理的に正しいとか言ってもまったく意味がない。

クソリプや誹謗中傷を匿名で行う人たちも、この赤ん坊の泣きわめきと結局は同じ欲求に由来している。つまり、SNSやネットで輝かしく、すばらしい地位にいる人たち、注目を集めている人たちに対して、そこにいるのはお前じゃない、オレなんだ、オレのために場所を空けろと言っている。そして、その場所にオレが行かないと、今の現状では自己承認欲求が満たされないので、もう早い話が死んでしまう。腹が減った赤ん坊の状態なのだ。

大人になった人に、小さいころ、ギャーギャー泣いてたでしょう?といったら、たしかに。オレはまだこどもだったからと言えば済むし、まったく自然でなんの問題もない。でも、SNSで噴き上がってクソリプ上げた人に、アンタそんな書き込みしてたでしょうと非難したらどうか。こどもだったから、とかいう言い分けは通用するか。ネットの誹謗中傷のせいで人が死んだり、鬱になったりしている。赤ん坊の泣きわめきとは異なり、重大な責任が生じている。

同じ欲求の充足を満たそうという人間の反応でありながら、赤ん坊と、匿名者のクソリプは、結果の重大性が大きく異なる。

私たちはこうしたしくみを知ったわけだから、ネット上に、ルサンチマンに駆動されたひとたちが、赤ん坊のようなレベルでわめき散らす場所を作ってはいけないのではないかと気がつく。

それはもちろん言論の自由云々とはまったく無関係な話だ。赤ん坊の泣き声に、言論の自由がどうのこうのなんていわない。

それで、赤ん坊が泣いたから赤ん坊を責めるのは間違っているのと同様、誹謗中傷を書き込む匿名者を責めるのも間違っている。彼らの欲求充足が適正な仕方、社会に害をもたらさない仕方で用意する必要があると思っている。たとえばそれはアメリカの3S政策だったろうし、今では、パチンコや、風俗産業、スポーツ、地域のいろいろなリクリエーション活動、社会活動(公民館とか、市民活動とかもっと光が当たるべきだろう)といえる。わたしがやっている、廃墟にDIYでリノベーションするような趣味もそうだ。

他にどんな活動を用意すれば人々はネットへの誹謗中傷ではないかたちで心の満足を得られるか。嫉妬心に関心が向かない仕方で日々を送れるようになるのか? ここでも冒頭の内田先生の著書にヒントが書いてある。

内田先生は、これは合気道から体得したといっている。つまり、人間は今、五感のうち、視覚情報が偏重しすぎていると。そうではなくて、聴覚、触覚、嗅覚、味覚からのインプットに、意識的に注意を向けたほうがいいだろうと。

というのも、現代ではスマホがあって、インターネットがあって、とにかく膨大な量の情報が目から入り込み続けている。こんなの数十万年の人類の歴史でなかったことだろう。

視覚に流れ込む情報量が大きすぎて、その処理のために人は座ったきりになっている。あるいはスマホをいじるのに夢中で、他の動作がおろそかになる。

極めてこれは長期的にはよくない。今こそ、この触覚、聴覚、嗅覚、味覚が喜ぶような別のかつどうに取り組むべきだろう。

匿名者のルサンチマンに火をつけないでおける諸活動は、この視覚以外の五感を刺激出来る活動であることが重要だ。私はそう思う。

内田さんのこの本は母親が買ってトイレに置いてあるのだが、意外に面白い。食わず嫌いだった。

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