経営している学習塾の最後のひとりがやめる

 2017年からやっている学習塾事業の最後のひとりがたったいま退会してしまった。

さっそく秋に向けて集客プランを練らなければならないがそれはそうと、保護者が塾を辞めさせる理由をここで整理したい。

おおむね、退会の動機で大きなものを3つあげると次の通りとなる。

  1. 成績が上がらない
  2. 他にやることがある(学校の課題や部活動)
  3. 単に他の塾に移りたい(友達の多くが行っている等)
2と3は塾は対策の取りようがないので仕方ないとして、問題は、成績が上がらない生徒をいかにどうすべきかだろう。

ここで参考になるのは人間の動機についての過去の学術知見である。特に筆者の専門である哲学からは、人間の動機で最大のものはなんといっても「死の恐怖からの逃亡」であろう。人が最大のエネルギーを発揮して行動するのは死にそうになった場合に生きるための諸行動である。睡眠、排泄、食事、ここから始まり、安全、承認、自己実現へと続いていく(マズロー)。

先進国で生きる我々現代人の生活において、最大のモティベーションの源泉である「死への恐怖」はすっかり洗浄されて隠蔽されている。家庭内での生活の諸場面ではもとより、都市においてもジェントリフィケーションが進み、死とは無縁の毎日を送ることができる。

法哲学的にも公衆衛生や平和、人権尊重などの概念が立法によってあるいは国際間の条約によって隅々にまで行き渡っている。このことがいっそう死の恐怖を見えにくくしている。もちろん、まさに人類文明の進歩の最も本質的な果実といえるので、筆者は否定しないのは言うまでもない。

ところが、相変わらず生き物としての人間がやる気を出す発火装置として最も依存しているのは、死の回避である。だとすると、現代人はやる気を出す最大の燃料をすっかり喪失している社会で生きていることになる。

こうしたことから、成績を上げようという動機がない子供に勉強させて成績向上させるのは、私が経営するような吹けば飛ぶような一私塾にはあまりにも荷が重いといわざるを得ない。というか、これまで述べてきたとおり、それは実質的には不可能なのである。

残念ながら、子供を塾に入れる理由を「成績を上げたい」と漠然と捉えている人が多いが、塾で「成績を上げる」ことを目的としてうたうことはまさしく誇大宣伝だし、成績を上げること自体がそもそもできない(成績を上げるのは子供と学校の問題で塾は関係ない。さらにいえば成績を上げることをしっかりと約束できるのは現代においては心療内科医くらいだろう)。子供の成績を上げたいから塾に入れる、この保護者の期待は大手の塾のマーケティング戦略上、メディアを占有している巨大なイデオロギーであって、一般人がそれを動機として思い込むのもやむを得ない。

保護者の期待や思い込み虚しく、現実はといえばこうだ。つまり塾で提供できるサービスは、塾で過ごした週一回一時間なりに時間という限られたわずかなあいだに「たまたま」履修した学習内容(その科目のその章のその単元のある個別問題や概念理解)について、定着のきっかけを提供するだけだ。たとえるなら、勉強で成績を上げるという「ゲームの広告」を見させられているだけである。

その学習内容を定着させるための作業、先のたとえでは実際のゲームをプレイすること(暗記、問題練習を解く、塾で履修していない部分の学習など)は、塾以外の時間に生徒本人がやらなければならず、そうしないと成績は上がらない。

そして、塾で過ごす以外の時間を、生徒が以下に過ごすかをコントロールすることは誰にもできない。しかも筋が悪いことに、近年、前述した「死のクリアランス」化とともに、必要以上に娯楽が生徒たちの関心=時間を奪い合う状況だ(巨大IT企業がとてつもない額の投資をゲーム事業に投下している)。

ここまでくると、勉強したくない生徒に、勉強をさせることが困難なのか、まったく何の違和感もなく理解できるはずだ。

繰り返しになるが、勉強したくない生徒は、勉強の動機が全くない。そして、その動機を外部から起こすことには限界がある(特に塾は週一回一時間程度しかないので)。さらに、勉強に万が一(笑い)関心が向いても、たちまちスマホから通知で気が散る誘惑が届く。もちろん、放課後に友達とオンラインゲームで遊ぶことも彼らにとっては最も楽しみで愉快なことである(おまけに巨大資本がそうするように四六時中誘導している)。一私塾に何ができるか。何もできない。

以上のことから明らかなのは、これから、学習塾が生徒にどんなサービスを提供すればいいのか、である。親のニーズは最大限尊重されなければならない。つまり成績を上げてほしいということである。地位の再生産の戦略上、塾に支出できる金額が大きい家庭であればあるほど切実さは増す。

けつろんとしては、デジタルデトックス環境での合宿や、連日長時間の通塾だろう。それ以外に考えられない。

まず、人間を変えることができるのは次の3つの要素しかないことが分かっている。

  • 時間
  • 場所
これらが変われば、死への恐怖に由来する「緊張感」を取り戻すことができる。死への恐怖は緊張感やある程度の競争心、ストレスなど、勉強の動機を構成するために欠かせない要素である。

多くの保護者にとって朗報なのは、これらのリソースを提供できるのはまずもって親だ。しかも、お金はかからない(就労機会費用やその間の家事を外注した場合のコストを除く。ただ、家事を外注して勉強は親が教える方が安いかもしれないうえに、子供との時間を過ごせるし、家事はやらないですむので金銭的メリット以上のメリットが多い)。だから、我が子の成績が上がらないと訴える保護者に一番最初に示しうる、そして唯一の処方箋としては、親が勉強を、長時間、家以外の場所が確保できれば家以外の場所で、直接子供に教えることだ。長時間子供と過ごすことは、お互いにとっていいかもしれない(ただし、目くじら立てて脅迫的かつ強迫的に勉強をさせるのはそれは教えるとはいわない、虐待だ)。

私の浪人時代も、とにかく勉強はみんなでした。ひとりにならないように、塾が終わったあとも図書館にみんなで出かけて勉強した。家でひとりでの勉強は、30年前の私ですら無理だった。今日、家では30年前と比較にならないほど誘惑があふれている。

人間を、勉強しない人間から、勉強する人間へと変えるために塾は場所、時間、人を提供するサービスでなければならない。

ある経営コンサルタントは、事業開始当初は、クライアントの社長にとても優しく紳士的にふるまってきた。ところが、ことごとくそうした企業は倒産した。そこで心機一転、「鬼コンサルタント」として、メッチャ怖いヤバイキャラで社長に接するように切り替えた。スパルタ式どころか、単に睨んで何も発しないとか、職場の整理整頓清潔を徹底しろ!以外に何も言わないまま何年も、とか。するとことごとくその会社の業績は回復したのである。塾もこのレベルで家に入り込んで子供の生活環境丸ごと鬼指導する以外にない気がする。もちろん親諸ともだ(こうした方法がもはや完全に道理にかなっていることは明らかだ)。

ところがここに来てコロナで、人と人の接触が忌避されるようになった。鬼みたいなコンサルによる人間と人間のぶつかり合いはもとよりあらゆる対面サービス、特に教育では、対面授業は中止され、オンラインに切り替えることが余儀なくされている。ところがオンラインでは場所が変わらないため、人を変える力の30パーセントが失われる事態である。というか、このあと述べるように、感染予防に配慮しながら人間を変えることはもはや絶望的だ。

そもそも人を変えるということは、何かを人に感染させること、気持ちの感染を引き起こすことにほかならない。その際にはウィルスももちろん同じ経路をたどるだろう。どういうことか。

オンラインではウィルスが伝わらないが、それゆえ人の気持ちも伝わらない。塾で友達ができるということが結構重要だが、オンラインではそれも期待できない。先生も、もちろん人の要素で最大のものだが、リアルタイムのオンライン会議方式ならまだしも、単に動画を視聴するだけになるのが昨今の趨勢だろう。となると、授業で目の前にいる人間がいましゃべっていることで始めて人というのは機能するのに、それが画面で、しかもいつでも再生を止められる動画となると、人に勉強をさせる緊張感をもたらす役割は完全に果たせないだろう。緊張感を伝えるには非言語コミュニケーションがきわめて重要であるわけで、これに限らず言語コミュニケーションをオンラインで代替することにより失われる非言語コミュニケーションの損失はじつは計り知れない。

こう考えてみると、感染症で文明が危機に瀕している、しかもこの感染症は温暖化のせいで、かつてなく多頻度に蔓延することが今後予想される(ウィルスがどんどん増えるし、新しいウィルスも生まれやすくなっていると報道されている)。

以上、コロナなどの感染拡大防止の施策下では人の動機が涵養されにくくなっているということを考えてきたが、これは一私塾の、一生徒の問題ではないことがもはや明らかだ。

義務教育はまだしも、高等教育機関は今後存在意義を完全に失う。必要な社会での役割に応じて、自動車運転免許試験場のようなスタイルでの「教習」と「免許」が付与されることが多くなるのではないか? しかし、自動車運転は人の命がかかっているし経済的にも重要なので制度として成り立っているが、他のどの分野でこれが必要か。医療はすでにある。教職も。じつは必要な免許の制度はあらかた出尽くしており、いますでにある。

とくに専門性に欠ける文系の高等教育機関はじつはとっくの昔に存在意義がなかった。でも、大学関係者やインテリの生活を支えるために存続していたのかもしれない。

私の塾はもとより、たいした専門性も身につかない大学の多くは今後消え去るだろう。ではそこで働いてきた私や大学関係者、たくさんのインテリはどうしたらいいのか。安心してほしい。是非とも、今すぐ私のこのベーシックインカムしかない運動をするべきだろう。

さらにベーシックインカム推進運動へのジョインを急ぐべき一群の職業がある。婚礼関係だ。婚礼市場は巨大だ。出会いのためのパーティーイベントからはじまり、披露宴、ギフト関連などだ。さらには、家庭を作ってこれから若い人が人生を始めるにあたって関係する諸領域も影響を免れない。具体的には、建売住宅、賃貸住宅、子育てのための消耗品関係などだ。こうした人たちはインテリとは異なり、ベーシックインカムとか、「運動」とか行ってもぴんとこないから軽く説明したい。

前提知識として、私の十八番の資本主義オワコン説を一席。さてここ数十年のあいだに、資本主義国では、経済成長を持続させて制度を維持するためにとてつもない額の貨幣を発行してきた。ところがそれらの貨幣はほとんどが株や債権、ファイナンス(融資など)などの金融経済に滞留して、私たちの生活とは無関係なところで沸騰しバブルを起こしている。

近年、余ったカネは特定の不動産の値上がりを招いてバブルの様相を呈しており、そこに住んでいる生活者は賃料の高騰により生活が脅かされるまでになってきている。

したがって、ベーシックインカムを導入するのは、カネの流れを金融経済から実体経済へと変えることが究極の目標である。ベーシックインカムは、国単位で行われる。その国の国民なら、誰でも無条件で、決まった額のお金を政府からもらえる。

富裕層にとっては、たとえば月10万円もらっても、全体の収入のわずかにしかならない。一方、貧困層にとっては、月10万円といったらとてつもないインパクトである。富裕層からは、資産税や所得税であとでそれを回収することができるから、ベーシックインカムはいまの制度で税法だけいじれば非常に簡便に導入できる。

仕事がなくなる未来に暗澹とする時間があるのなら、このカネの流路の変更の運動に全力で打ち込んで下さい。

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