人間にとって快適さとは何か?



 10年近くたって再読したこの本。

最近興味を持った「ナッジ」(環境から本人の意思決定に介入し他人を操作する手法)のことが書かれている。直接的ではないものの、私たちがじつはとてつもない規模で「操作」されていることがあらためて確認出来る。人間というのは弱く、不条理で、自分など持っていない、220種類37兆個の細胞の寄せ集めでしかない。

他人の権利行使を妨げないこと=福祉だとすれば、(自分の)権利の反意語は福祉と言うことが出来る。福祉はしたがって法と公共の負担のもと、すべての国民に担保されなければならない。

快適という名の制御という項から引用したい。

快適、ってなんでしょう、生理的に気持ちいいという直接の意味を、とりあえず脇にのけると。ゆだねること。よしなに、取りはからってもらうこと。いちいちこちらの確認や判断を求めず、あちらでやってくれること。その上責任も取ってくれること。こちらはリラックスして、導かれるままに振る舞っていけばいいこと。普通は「快適」だけでここまで考えないでしょうが、あえて現代におけるそのニュアンスを外挿すれば、だいたいこうなるはずです。要するに快適とは「さりげない(被)制御」と同義語

心理学や行動経済学を知らないすべての人は自分の意思決定は自由になされると思い込んでいる。 しかしもちろん真実はそうではない。自由は、快適にのっとられてしまっている。「30日間無料」とか、「ここをクリックしていますぐ視聴開始」とか、「広告をスキップ」とか、そういう簡単で便利な快適さによって、自分の意思決定は制御されている(気がつかないままに)。

一方で、快適でないものには人は不自由をおぼえ、出来ないというふうに錯覚する。生活保護の受給申請がそのいい例だろう。扶養照会(最近はやらないように政府が言い出した、当たり前だ)で身内にバレて辱めを受けるだとか、「窓口」で門前払いされるだとか、そもそも平日昼間に窓口に行くことが出来るのだろうか? 貧者は昼間働いているかまたは夜働いているので寝ているだろう。まったく快適さとはほど遠い。

だが、じつは法的には憲法や生活保護法により、私たちは生活保護を受給申請する自由を持っているのである。法的にはそうなっているが、心理学的にはそうなっていない。自由さ(快適さ)はゼロである。

で、政府はしっかり考えている。さすが政府だ。政府は当然国民の生命健康安全を守り、憲法が保障する最低限度の文化生活を営んでもらいたいと思っている。そして、そのために、この4月から、デジタル庁が出来た。

マイナンバーカードを持って、確定申告からの所得と、銀行口座がヒモ付けられれば、自動的に足りない分が振り込まれるしくみができつつある。これほど快適な物はないだろう。これこそ自由なのだ。

政府が目指しているのは、こういう自由の実現だ。紛れもない事実だ。私は日本という国を信じている。日本という国は憲法のことだからだ。そういう意味で、私は護憲の保守派なのである。

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