老人たち

 

写真は本文とは関係ありません
私の飲食店が土日に開くガレージセール。子ども向けのおもちゃや英語の絵本が並んでいる。(本文とは関係ありません)

最近、社会福祉的なニーズから近所の独居のお年寄りにカレーをお持ちすることがあった。このニーズは私のここ数年の福祉的な活動(たとえば障害者総合支援法、発達障害者支援法からの事業の従事、あるいはゲートキーパー養成講座の受講などでアンテナに引っかかった人への個人的な支援)でご縁があった人に対しておこなういわば市民的包摂活動である。

長年調理師をしていた彼は数年前に退職して以来、家に引きこもっている。2年前から調子が悪く、人との交流もなく、完全に孤立している。内科にはウツ病気味だと言われている。彼の主訴は全身の痛み、人の眼が気になって外に出歩くのがつらい、というもの。それに、私以外、話す相手もなく、孤独でとにかく不安だという(電話番号を教えていつでも電話してくれと言ったことが余りにもうれしかったらしくて何度もお礼を言われる(T-T))。

このコロナ禍にあって彼の外出の機会は著しく減った。週1回の食料品の買い物と、月2回程度の通院である。

私の店は飲食店なので、わたしが個人宅に商品を届けることは原則としてしない。しかし冒頭言ったように、ニーズがあったのであるときから彼に限っては届けることにした。カレーを届けるがてら、週1回、彼の安否を確認することも含まれていて、それは彼に頼まれたことである。一年ほどやっていたのだが、まれに私がその事務を失念する。彼はおなかを空かして待っているのにもかかわらず。

私も人間(しかもADHD)なので忘れることが当然ある、どうしても確実にしたいなら、電話くださいとか、店に来て下さい(歩いて1分もかからない近所)というのだが、これは本人によれば[都合によりそれは出来ない]の一点張りだ。じゃあわたし忘れることあるんでそれご了承くださいと言ってある。それは承諾された。カレー一杯650円である。

このあいだも忘れた。いつも、わたしが忘れるときはこうなる。私に無理を言って持ってきてもらっている後ろめたさから、恐縮しつつ電話かけてくる。「今日はカレーは?」 もちろん私の単なるど忘れゆえ、一方的に私はお詫びするだけである。勇気を持って、電話したのに、謝られるだけでカレーは手に入らないのである。

5回目のすっぽかしの翌週、彼はついにカレーを辞去した。おたがいに申し訳ないというのが理由だ。すでに地域の包括支援センターの連絡先は言ってあるのだが、人が来て家の中を見られるのはイヤだと言って、いつまでたっても連絡しない。

この体験からわたしが観察したことは次の2点である。

  • 運動(散歩)すれば身体の痛みもウツも消えると思うのだが決してそうしない
  • 行政支援を求めるのをいやがる(受援力欠如)
どうするこういう社会的孤立高齢者。湯浅誠が『反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)』で社会に「溜め」が失われていると言ったのは2008年。あれから10年以上たってますます社会は当時から予想されてきたとおりのヤバい感じになっている気がしてならない。

貧困では飯は食えない

貧困ではないかもしれないがもう一人、気になる高齢者がいる。妻もいれば子もいて、たまに孫が遊びに来るので決して貧者とはいえない。わたしが気になるのは彼の車についてだ。狭い私道の奥にいつも車を止めるので、近隣住民の反感を買っている。自分の家の車庫に入れるのが面倒くさいのである。また、私道をバックで入ってくるときの操縦が年々危険な雰囲気を呈している(私道の自転車などにぶつかるなど)。

車は、ぶつかったりこすった傷でボロボロである。本当に怖い。その狭い私道を通って、わたしの子どもは学校に通っている。

そもそも駅から歩いて数分のこの住宅において、高齢者が車を運転する、自由はもちろんそれはあるが、合理的理由、社会的に共感を得られる理由ってあるのかね。私は経済的な理由はもとより、SDGsとか、やっぱり歩いたり自転車のほうが身体にいいことを分かっているので、もう何年も前に車を手放した。それだけに、古いガソリン車を何の用事か知らんが乗り回す高齢者、ホントやめて欲しい。歩いて行けって。まじで。あーいいたい。


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